常々思っているのですが、留学や外資系就職で世界を飛び回っている人でも、島国根性丸出しの人もいるし、英語も全然話せない山奥のおじいさんとかでも英語使わずに海外の方とのコミュニケーションしちゃう人もいるってことは、グローバルって「学歴」とか「職歴」ではなくて精神・スキル・人との関わり方なんだと思うのです。
意識高い系のイメージが先行するグローバル
改めて考えてみるとグローバルって、別によくもわるくもなくてフラットなものだと私自身は捉えています。
同じくローカルも、それ自体ではよい・わるい、の性質を持たないと考えています。
自分にとって合うかだったり、叶えたい夢にそぐう環境なのかどうかで、それぞれにとってのよい・わるい、が決まってくるわけで、単に条件と条件の掛け合わせだと考えます。
ちょっと話はずれますが、私自身はLGBTQもそういうイメージを持っています。
それ自体でいい悪いもない。
そして、同性や異性かも、単に組み合わせの問題だけだと考えています。ゆったりした場所、人が少ない場所を好む人がローカルで心地いいと感じることと同じだと思っています。
で、何事もイメージが先行してそれにわたしたちは引っ張られてしまうことが多いと思うのですが、もれなくグローバルもそうなのではないかと感じます。
・英語しゃべれるとすごい、というCMや自己啓発などの書籍
・外資系がすごいといったイメージ
・バイリンガルへのあこがれ
・留学、という夢
・学校における国際交流の立ち位置
なにか特別なもの、「生活の外にあるもの」といったイメージが先行しているような気がして、目指すことにハードルを感じてしまいます。
ここは日本です。I am sorry I can’t speak English?
日本人って困っている人を助けたい気持ちが強いです。
そして、自分側が「できない」ことにものすごく申し訳なさを感じます。それは自分にもある部分です。
ただ、よくよく考えてみると、わたしたちが日本に住んでいて、道を聞かれてついつい
I am sorry I can’t speak English.
と答えてしまうのは、人の好さはおいておいた場合、おかしいよね、と思うわけです。
だって、日本ですよ?
自分が住んでいるところで、自分の母国語以外を話せないことに「すみません」と思う必要はないはずです。
もちろん、話せて、困っている人を助けてあげられるのが◎です。
ただ、それができなかったとき自己嫌悪に陥ってしまうのは必要のない部分だと思うのです。(ポジティブな意味で、説明できなかったから英語がんばろ!とかはよいとして)
「ニホンゴハナセナクテゴメンナサイ」
って海外の人が感じるシチュエーションだということです。
英語を話せるほうが偉い、というわけではなく、困っている人を助けるのに英語を喋れたらいいな、でよいと思うのです。
インバウンドで日本から出ないグローバルも可能になってきた
最近よくこういった動画を見ます。
海外の方が日本に旅行に来た際のリアクション動画などを撮っている方が増えました。
自分が留学しないとできなかったような、「国際交流」がインバウンドの影響で、日本にいながらできる可能性が増えてきていると感じます。
留学はムリと考えていた家庭でも、インバウント需要があるようなエンターテインメント施設や飲食店で働くために「日本国内で引っ越しやデュアル拠点」はまだ挑戦できる範囲内にあるのではないでしょうか?
母国語も同じ、制度やシステム、通貨も今までと同じままでグローバルな体験に触れられる場所に移動する。
ずっとじゃなくても若いうちに経験するだけでも、その後何をしたいか、見えてくる材料にもなるでしょう。
そして、やっぱり交流したら、
「ちゃんと理解したいし、伝えたい」
と思う。
そこで初めて英語をきちんと身に着けたい、ってスタートしていいと思うのです。
なんだかわからないまま、英語がしゃべれないとキャリアアップが、、、みたいな漠然としたものでは続けるモチベーションもわかないのではないでしょうか。
グローバルってコミュニケーションであり、英語はツールである。
それを活用する方法を知る、ということがエイガクのモットーとしているところです。