不登校と、大人の学び直し(リカレント)。一見遠いこの二つには、同じ構造があります。学びの機会が、「余力のある人」に偏って開かれている、ということです。
余力というと、まずお金を思い浮かべます。でも実際には、それだけではありません。時間、環境、体調、そして家庭の空気。このどれかが欠けていると、学ぶための入り口はするりと遠のいていきます。
学びたい気持ちと、学べる時間は別物です
知ることが好き、新しいことを知るとワクワクする。教科の勉強に限らず、そういう人はたくさんいます。問題は、その気持ちがあるかどうかではなく、その気持ちを向ける先の時間や機会を確保できるかどうかです。
学びたいのに機会がない。時間が取れない。だから優先順位が下がっていく。好きなのに後回しになる——これは怠けでも意欲の欠如でもなく、単純に生活の容量の問題です。不登校の子どもの学びの機会も、大人の学びの機会も、この一点で地続きになっています。
生活のスキマで、とはよく言うけれど
リカレント、と気軽に言われます。でも、子どもを育てながら、仕事をして、節約献立を考えて、学校とのやりとりをして、洗濯をして、子どもの話を聞いて……という一日のどこに、その「スキマ」があるのでしょうか。
もしそのスキマで学べるとしたら、よほど体力がある、たまには祖父母に預けられる、習い事をいくつもさせられる財力がある——つまり、何かしらの余力がある家庭に限られます。そうでなければ、学び直しは「無理をして」ねじ込むものになってしまいます。
頑張って、努力して、倒れるまでやるのが美徳。子育ての現場に、その正論はいらないと思っています。まず優先すべきは、元気で、イライラしていない家庭が保たれていること。学びはその次です。順番を間違えると、家庭ごと消耗します。
だから「リカレント、リカレント」と押されると、少しだけマリー・アントワネットを思い浮かべてしまいます。パンがないならお菓子を、と。
学びなおしは大事
ここは誤解されたくないところで、リカレントそのものは重要だと思っています。大人になっても、いつからでも学び直して、キャリアを変えていける。そういう社会になることには、はっきり意味があります。
高校を中退して、旅をしているうちになりたい仕事が見つかって、そこから大学に入り直して目指せる。そのルートがスムーズであってほしい。回り道が不利にならない設計であってほしい、と思うのです。
そもそも、高校生で将来を「確定」する必要はある?
社会に出たことのない高校生が、職場見学くらいの情報で「将来はこれになりたい」と決める。この順番自体、少しおかしいと感じています。
もし、学校より優先して休んでいい、単位にもなる——そんな「半分だけ社会に出る」カリキュラムがあったら、どうでしょう。実際にやってみて、「自分はこの作業が苦手だ」「この業界のノリは無理だった」と、身体で感じ取れる。そのうえで、自分の適性に合ったものを選び直せます。頭で選ぶ前に、手で確かめられる。それが本来の順番ではないでしょうか。
学びが、本人に貯まっていく仕組みを
だから、リカレントは大事です。ただ、その学び直し・学びの方向転換が、学生時代から一本につながって、本人の「学習歴」として積み重なって残る。そういう仕組みが全国民にあることのほうが、正直、マイナンバーカードより大事だと思っています。

学びの連続性は、学校の側にあるのではなく、本人の側にある。学校を離れても、社会に出ても、また戻ってきても、その人の学びの記録が途切れずに続いていく。不登校で学校の連続性から外れた子も、忙しさで学びを中断した大人も、本人に紐づいた連続性さえあれば、いつでもそこから再開できます。
学びの機会は、「普通」を想定しすぎていないか
結局のところ、いま用意されている学びの機会は、「普通」を前提にしたものが多すぎるのだと思います。普通に学校へ通えて、普通に時間と余力があって、普通のルートで進む——その普通から外れた瞬間、連続性がぷつりと切れる設計になっている。
不登校もリカレントも、その「切れやすさ」を別の角度から照らしているだけです。学びを学校に預けるのをやめて、本人の側に置き直す。そこから設計をやり直せば、余力のあるなしで学べる人が決まってしまう構造も、少しずつほどけていくのではないでしょうか。
