リカレント、と言うとき、たいていは「大人の学び直し」という意味で使われます。でも、その言い方の奥には、「子どもは教科の勉強をするもの、大人は実践的に学び直すもの」という、暗黙の役割分担があるように思います。その枠は、本当に要るのでしょうか。
先に、土台の話
はじめに断っておくと、基礎の土台は要ります。読み書き計算をはじめ、その後の学びを支える下地は、子どものうちに置いておくに越したことはありません。ここを外す話ではありません。そのうえで、という話です。
受験戦争を超えて、大学行ってからじゃないと興味のある分野に集中しちゃいけないのか?という話です。
子どもが学ぶ必要があるのは教科学習だけ?
子どもが、教材的な学びだけをしなければいけないわけではないはずです。
実際に年齢が低いほど、社会や世界のいろんなことを知りたがります。
実際に何かを作る、誰かと組んでやってみる、興味のあることを掘る——そういう実践や探究の機会も、もっと子どもに開かれていていいはずです。手を動かした経験や作ったものが、そのまま学びの記録になっていく。教科の点数の外側にも、学びはいくらでもあります。
大人は、実践だけに集中すべき?
逆の側も同じです。大人の学びというと、リスキリングや資格取得のような「実践・仕事に効くもの」に寄りがちです。それも大事ですが、そこ一辺倒なのは、少し狭いように思います。
大人が、純粋に物理を追求したっていい。役に立つかどうかの手前で、ただ知りたいから学ぶ、があっていい。子どもの「探究」と大人の「教養」は、名前が違うだけで、中身はそう遠くないはずです。
枠を外すと、行き来が起きる
そして、この枠を外すと、思わぬ行き来が起きます。現場で働いている人が、趣味のように物理を掘っていたら、それが新しいビジネスの種になる。そういうことは、実際にあり得ます。長く別の仕事をしてきた人が、あるとき医師を目指す——大人になってからその道に入る手段も、実際に用意されています。
学びの種類は、実践なら実践、教科なら教科、と固定されたものではありません。探究が実務につながり、実務の必要が教科の学び直しを呼ぶ。種類のあいだを行き来しながら、その人の学びは形を変えていきます。
エイガクではオフラインイベントとして、小学生男子を先生としてプログラミングを「大人が教えてもらう」という講座を開催したことがあります。
先に生まれたから先生、というのではなく、詳しい人が教えあう、でよくないだろうか、という想いからです。
誰がどの学びに手を伸ばしてもいい
学びの種類は、年齢や立場であらかじめ割り当てられているわけではありません。認定されるかどうかは制度や目的しだいで、そちらは証明の問題です。学ぶこと自体に限っていえば、子どもだから教科、大人だから実践、という仕切りは、もともとどこかに決まっていたものではなく、いつのまにか前提になっていただけです。土台の上には、教科も実践も探究も、同じように並んでいます。どれに手を伸ばすかを決めるのは、その枠ではなく、自分たちです。
